東京日刊紙の時事新報の記者であった大西理平は、1903年に裕福なワイン商人の従兄弟の大西虎一と初めて渡米しました。彼らは、テキサス州での米栽培の可能性に感銘を受け、すでに定住していた日本人農家の西原家の近くにあった約300エーカー(約367,253坪)の土地を購入しました。
大西氏は、日本人移民をテキサス州に連れてきた立役者でした。彼は、1903年に帰国し、その翌年に米を栽培する第1日本人移民農家集団を初めてテキサス州に連れて行きました。彼らは、1年目の農業活動で、豊富な収穫で評判が高かった日本の短粒米を栽培しました。このお米の種類は、テキサス州の肥沃な土壌で立派に育ち、他のテキサス州の米農家よりはるかに豊富な収穫量をあげることができました。
この農業ベンチャービジネスは、すぐに有名になったといえ、大西氏の農場で居住していたほとんどの農民が男性だったことが安定性の大きな問題となりました。これらの男性は、妻を持たなければ、農場に残り、テキサス州で将来を築いてもらうことが期待できなかったからです。この問題の解決策として、大西は、彼の男性労働者と結婚したい女性を探すために1909年に日本へ帰国しました。彼がテキサス州に連れてきた多くの女性は、会ったことがない男性と結婚することに同意したことで、「ピクチャーブライド(写真花嫁)」と呼ばれるようになりました。彼・彼女らの唯一の「接点」は、花嫁候補者と花婿候補者の写真交換だけでした。両者が縁談を承諾してから、花嫁がアメリカにいけるように花婿不在の結婚式が日本で行われました。日本人女性はアメリカ人男性と結婚しないと、アメリカ合衆国に入国できないとの日米紳士協定が存在していたので、この婚姻方法は、1908年以降、重要な役割を果たしました。
大西家は、第一次世界大戦中に繁栄を続けましたが、大恐慌の到来で米の価格が下落し、多くの日本人の米農家が失敗に終わり、テキサス州を去りました。テキサス州に残った日本人は、資金を出し合って、支援を必要とする人達に融資するために団体を結成しました。このころの大西理平は、ご家族と共にマサチューセッツ州に移住し、息子達だけがテキサス州に残りました。(このスタジオ写真は、1910年に撮影され、テキサス文化研究所から入手しました:86-299)
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